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書評

 投稿者:佐々木  投稿日:2003年10月27日(月)16時45分53秒
  10月26日(日)の毎日新聞「今週の本棚」に「意識とは何か−<私>を生成する脳」が取り上げられています。  

リンゴの木

 投稿者:てつろう  投稿日:2003年10月26日(日)12時49分52秒
  そうなんですか、それで花とか実のある写真ないんでしょうか?
そのコメントが本の中にあれば、もう少し茂木さんのやさしい視線のようなもの伝わったと感じます。本の中の唯一の画像ですもの。
でも著作読みながら、質問できるって不思議な感じですね。伝えようとされている「質感」よりリアルに感じられます。ありがとうございました。

http://d.hatena.ne.jp/eidostetsuro/

 

てつろうさん

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年10月26日(日)08時48分54秒
  Trinity Collegeの前のリンゴの木については、
花を咲かせたり実がなっているのを
見た記憶がありません。

Cambridgeの郊外のGrantcheterにあるThe Orchardのリンゴの木は、
毎年花を咲かせて実がたわわになっていました。
 

徳永さん

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年10月26日(日)08時47分38秒
  クオリア日記についてですが、最初は自覚していませんでしたが、
最近自覚していることは、
「私という人生の具体的なエピソード性の中に、普遍的なものが
どのようにかかわってくるだろうか」
ということをいかに表現していくか、
ということがテーマだということです。

どんな人にとっても、普遍性は必ずその人の人生の具体的な
エピソード性にまとわりついて現れるわけで、
そこの関係を探りたい。

「割に合わない」というのは、徳永さんの言われるのが
どのようなことか、推定するしかありませんが、
毎朝日記を書くときは「自動書記状態」でだいたい
15分くらいしかかかりませんし、
それほどの負担にはならないし、
それと、もし、本のような形でまとめて
経済的利益を得る、ことができないから
「割に合わない」と言われているのだとしたら、
そんなことがなくても、
上のような意味で自分にとって大切な問題を
考えるエクササイズとしては、十分割に合っています。
 

「意識とはなにか」届きました

 投稿者:てつろう  投稿日:2003年10月25日(土)18時02分5秒
  予約していたのが届いたので、少しづつ読んでいこうと思います。
中をめくっていて、ニュートンのリンゴの木(ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ内)の写真が載っていた。各地にその子孫が接木とかして記念植樹されているという。幸運なリンゴの木。

でも茂木さんの添付されている写真は白黒で、リンゴの花も実も落ちた後で、枝だけのもの。少し寒い印象。
ネットで探しても不思議と実の着いてる写真がない。ニュートン研究所の写真が花咲いてるところだった。やはり花とか実があるほうが良いな。

http://d.hatena.ne.jp/eidostetsuro/

 

茂木健一郎さま

 投稿者:徳永 太  投稿日:2003年10月25日(土)15時33分8秒
   ご丁寧なコメントを頂き、まことにありがとうございます。
「できれば解決したいと思っていますが」のお言葉には、かなり安心しました。
 もし「必ずしも解決する必要なし」とのお考えなら、ある意味、あまりにも禁欲的すぎるアプローチだと思うからです。
 申し上げたかったことは、十分にお汲み取り頂いているようですが、念のために申し添えますと、以下の通りです。
 仮に茂木健一郎さんが「実は解決するつもりなどない」と割り切っておられたとしても、「意識とはなにか」で代表される論考は、歴史に残るに違いない。
 少なくとも、もし私が歴史の番人だったら、絶対に残す。

 かようなわけですので、とくに他意はございません。
 万一、お気を悪くされたとしたら、お許し下さい。

 私事で恐縮ですが、今日、久々に、本サイトで御公開の「クオリア日記」を拝見いたしました。
 心脳問題を志して神経生理を学び始めた3-4年前は、毎日のように拝見しておりましたが、そのうちに茂木健一郎さんの雄大な「知の自由」に圧倒され、息苦しさを感じるようになり、ついには自分の中で「クオリア日記」を封印するに至りました。
 今もそのときの心情には基本的に変わりないのかもしれません。
「クオリア日記」では、茂木健一郎さんの壮大な精神世界の叙事詩が綴られています。
 様々な人たちとの対話、ご自分の講義・セミナーの講釈・反省、あるいは聴講された講演等の印象・考察、マスメディアの流す情報への批評・論評・コメント、果ては、取り止めのない日常の思考など、実に多岐に及んでいます。
 そんな「クオリア日記」を眺めていると、例えば「意識とはなにか」で語られていることは、実は茂木健一郎さんの知のごく一部であるような気がしてしまい、例えば自分が「意識とはなにか」を読んで感銘したとしたら、その感銘の分だけ、自分の知がみすぼらしく見えてきてしまうのです。
 本当はそんなはずはありません。
 そもそも、学者や作家の論考や作品とそれを生み出す精神世界との関係を、そんなに安易に定式化してよいわけはありません。
 しかし、自分の心のナマの動きはなかなか制御できないものです。

「クオリア日記」8月22日付(2003年)で言及されている「徳永太さん」は、私のことです。
 ここに記されている

「海馬のシナプスのカルシウム・チャンネルの多様性が
 どうであるか、という問題と、
 漱石の文学における個別的なものと普遍的なもの
 の関係がどうであるかというような問題は、
 私の中でひとつながりになっている」

 というくだりは、いかにも、茂木健一郎さんらしいお言葉です(もちろん、ご著書などからお見受けする限りですが)。
 あの日は、こんなことを確認したくて、お邪魔したように思います。
 私自身は、海馬シナプスにおけるカルシウム・チャンネルの多様性を考えるその精神で、漱石文学における個別性と普遍性とに思いをいたすというアプローチには、なかなか実感が伴わず、頭でっかちの理解しかできておりません。
 ただ、そんなアプローチを武器にしてしまう茂木健一郎さんの「知の自由」を積極的に肯定したいと思う自分、あるいは、その「知の自由」の源泉から少しでも何かを学びとりたいと願う自分に、今は気づいています。
 そう気づくことができたのも「クオリア日記」のおかげです。
 ですから、「クオリア日記」は私の「恩人」であり、それ以上は望むべくもないのですが、それでも…と、つい思ってしまいます。

 茂木健一郎さんは、なぜ、ご自身の日記を、このような形で公開されているのでしょうか?
 その動機は、例えば「意識とはなにか」を上梓された動機と何らかの関係があるのでしょうか?
 あるとしたら、どのような関係でしょう?
 もちろん、お答えになる義務はありません。
 ノーコメントでも結構です。
 ただ、私にとっては、初めて「クオリア日記」を拝見したときから、とても不思議なことであり続けているという点を、付け加えさせて頂きます。
 少なくとも私には、例えば「意識とはなにか」のような著書を発表するよりは、ご自分の精神世界をさらけだすという意味でも、日記の継続には多大なエネルギーが必要であるという意味でも、割に合わない営みに思えるのです。
 

徳永さま

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年10月24日(金)09時38分26秒
  たいへん深い洞察に満ちた
ご感想をありがとうございます。

とくに、問題設定と解決の関係についての
御洞察には、なるほどと思いました。

私は、できれば問題を解決したいと思っていますが、
徳永さんもご存じのように、
心脳問題の解決は、一筋縄ではいかない
ものです
ご指摘のとおり、あらゆるガクモン分野の境界をのりこえて、
それこそ、「使えるものは何でも使う」
意気込みの総力戦を展開しなければ
解決は無理でしょう。

解決できるかどうかは、神のみぞ知る。
まずはとりあえず、やさしい問題とむずかしい問題の間を行き来しつつ、
辛抱強く考えていくしかないかな、
と思っております。
 

大変に興味深く拝読いたしました

 投稿者:徳永 太  投稿日:2003年10月23日(木)21時17分58秒
   徳永太と申します。神経生理を専攻している大学院生です。

 本書において改めて、物理主義・計算主義・機能主義に基づく心脳問題へのアプローチの限界が明確に指摘されている点は意義深いと考えます。さらに重要なのは、こうした従来の学問的手法が、必ずしも心脳問題の枠組みの外に配置されているわけではないという点です。物理主義も計算主義も機能主義も心脳問題の前には一見無力なようにみえます。しかし、こうした従来のアプローチを完全に否定し、それ以外のアプローチのみを主張する態度は非建設的といわざるを得ません。物理主義・計算主義・機能主義が扱う「やさしい問題」も、少し見方を変えることで、たちまち「むずかしい問題」に直結するという示唆は、そうした不毛な方法論闘争に終止符を打つ可能性があります。「やさしい問題」と「むずかしい問題」とに二極化させる態度は、両極の差異を際立たせる上では有意義でしたが、その差異が広く認識された今となっては、かえって心脳問題の進展を妨げるかもしれません。

 もう一つ、意義深い点があります。それは、本書において、学問領域にとらわれない考察が展開されているという点です。心脳問題にアプローチする上で、生物学的とか哲学的とか物理学的とかいった従来の区割りは、科学者ないし学者の役割を限定するという意味で益が薄いと考えています。心脳問題のブレイクスルーは、既存の学問領域の垣根が取り払われることで起こり得るはずです。その意味で、本書のアプローチは極めて合理的といってよいと思います。

 予想される批判としては、以下のようなものでしょうか。曰く「本書は心脳問題について何を解決したのか?」。あるいは、「本当は解決する気などないのに、さも解決しようとみせかけているのでは?」といった批判です。たしかに、「本書は何も解決していない」という指摘を否定することはできません。しかし、その前に、「解決すること」の科学的意義を相対化する必要があるように思えます。

 私は、科学者には2種類の役割があると考えております。一つは、既に提示されている問題点に果敢に挑む問題解決者としての役割。もう一つは、これまでに誰にも提示されたことのない魅力的な問題点を記述する問題設定者としての役割です。僭越ながら、かねてより、茂木健一郎さんは優れた問題設定者であると考えておりました。一見、問題解決者の方が、問題設定者よりも建設的で、科学の発展にも大きく貢献しているようにみえます。しかし、それは短いスパンで評価した場合です。問題設定者の業績は、より長いスパンでの評価の対象になります。どれくらいの数の問題解決者を、どれくらいの期間にわたって夢中にさせたか? 問題設定者の業績は、そうした観点から評価されます。すなわち、すぐれた問題設定者は科学の発展の原動力ということができると思うのです。

 その意味で、茂木健一郎さんのアプローチは計り知れない可能性を秘めています。もし本当に「心脳問題について何も解決していない」という批判があるのなら、私は、声を大にして、そう反論するべきだと思うのです。
 

お知らせ

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年10月15日(水)05時38分18秒
  この掲示板は、「意識とはなにか」の内容についてのご感想、ご質問をいただいたり、
議論するための場ですので、
趣旨に直接関係しないご投稿は、
削除させていただく場合がございます。

あらかじめご了承ください。
 

tatumi さま

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年10月15日(水)04時46分17秒
  感想、ありがとうございます。

私も、神の概念については、たいへん関心があります。とりわけ、ご指摘の
とおり、神の愛(アガペー)などについては、これなしでは
ヨーロッパ文化の理解など不可能でして、人間の精神の中で、これらの
概念が果たしてきたやくわりは大変大きいと思います。
現代的な視点からみれば、すべての表象は、神経細胞のつくり出す
仮想であるとも言えます。
「神」や、「超越性」の概念は、表象という視点からとらえなおすと、
今までとは全く違った見え方がするのではないかと考えております。

ご参考までに、翻訳を監修した「脳はいかにして「神」を見るか」
に書いたあとがきの一部を引用いたします。

 確かに、宗教的体験は、特別なもののように思われる。しかし、
一方で、そもそも、私たちの主観的体験がどのように生み出され
るかを考える上では、宗教的体験だけを特別扱いする理由はない。
ちょうど、光が暗闇の中にかすかに見える状態と、太陽のように
まばゆく輝いている状態では、同じ「光」でも、その主観的見え
方が変わるように、「宗教的体験」も、私たちの日常的な体験と
一連なりのスペクトルの中にあると考えた方が合理的である。
・・・・
 宗教的体験を、日常的体験とはかけ離れた特別な領域に囲い込
んでしまっては、本質を見誤る。重要なのは、日常生活における
主観的体験の何気ない不思議な性質の中に、かっては「宗教」と
いう名前の下に探求されてきた私たちの存在のミステリーを読み
とる感受性なのである。
 神は、舌に載せたチョコレートのほろ苦さの中にも宿っているのだ。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569626858/qid=1066160610/sr=1-7/ref=sr_1_2_7/249-9004904-1862726

 

難しい問題とやさしい問題

 投稿者:tatumi  投稿日:2003年10月14日(火)21時14分3秒
   大変、面白く読みました。特に、「ただいま」を「ただいま」であることについて考えることが魅力的なミステリーとあると同時に心の安定や生命の危険に関わり、そのことを深く考えることをやめてしまう本能が働くというところに共感がもてました。私の場合、「私」が「私」であることの不安の目覚めは、高校生のころでした。その当時は、言葉のもつ「むずかしい面」が理解できないことから始まり、それをきっかけに自己不安に陥り、人前でしゃべることを極端に恐れるようになりました。今から思えば、言葉の意味なんて本当に理解している人なんていないことを悟り、言葉を「やさしい問題」としてとらえ、人前で言葉をどんどん使えばよかったのですが、その当時はそんな発想がなかったのです。この「難しい問題」を「やさしい問題」として捉える技術は、多くの人が世間を生きる術として本能的に身につけているのだと思いますが、私には、なかなか「難しい問題」を「やさしい問題」へと変換させる、頭の柔軟な切り替えができませんでした。でも、独りもんもんと考えても「難しい問題」を私がとけるわけはなく、かといって存在論的不安に真正面からぶつからないように気をつけて、スポーツや学問に打ち込むことでどこか時間を費やしていました。しかし、自我の存在論的不安を解決できないままに大人に成長しても、自分自身の深い内面はどこか空虚で満たされない強い思いがありました。この自我の不安を解決するために、宗教にも興味をもってみましたが、やはり「難しい問題」は解決できませんでした。でも、心脳問題を本当に解決するためには、結局は神の問題を避けることはできないと直観的に感じます。神の問題は人類共通の根深い問題であり、世界でも宗教戦争を起こすほどです。私自身は全知全能の神は信じていませんが、大人になった今でも、真実の愛は心のどこかでまだ信じています。神を論理的に否定する人は大勢いても、愛を倫理的に否定する人は少ないはずです。もし、神の本質が愛だとすると、神はこの世界に実在するのかもしれません。世界にはよく理解できない起源があります。個物(or 時間)の起源、愛(or 自由)の起源、最後に創造の起源。これら起源は果たしてどこからくるのでしょうか?自分自身の悩んでいることだけをつらつらと書きました。茂木さんの本を読んでみて、自分の人生の悩みが整理できたように思います。ひとまず、これら「難しい問題」は、「やさしい問題」として捉えようかと思います。「難しい問題」と「やさしい問題」を柔軟にいききすることで、どこか光明がみえるかもしれません。また、面白い本を書いてください。  

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年10月14日(火)08時53分56秒
  様、たいへんご丁寧に感想を綴ってくださり、
ありがとうございます。
文章をお読みする限り、確かに、「むずかしい」問題
やコミュニケーションの問題を、ご自分のものとされている
ように感じます。

あの本は、いわゆる脳科学に限定された問題意識の本ではないので、
ま 様のような読み方をされることは、大変うれしいことです。
ありがとうございました!
 

たいへん面白く読ませていただきました

 投稿者:  投稿日:2003年10月14日(火)08時36分23秒
  とても面白く、読んでよかったと思いました。

読んでいて、様々な考えが頭の中をかけめぐりました。
そして自分が悩んでいたことが、少しだけクリアーになった気がしました。
以下にそのことを書かせていただきます。

やさしい問題とむずかしい問題のところで、「ただいま」という言葉に違和感を感じた経験が紹介されてました。ぼく自身はただいまという言葉にそのような違和感を感じたことはなかったですが、「文字」に突然違和感を覚えたことがあります。そのきっかけは「切る」という字でした。高校のときこの字を度忘れして、そして人に教えてもらったのですが、なんだか妙な違和感をが生じて、「ホントにこんな字だったっけ」と友人に尋ねたりして、そしてしばらくじっと眺めてみましたが違和感をぬぐうことが出来ず、「なんだこの字は。どうしてこんな字がなにかを表しているんだ」などと考えているうちに、そのうち違和感は「文字で情報がやり取りされるということ」すべてにかかっていき、非常に不安になって気分をそらした、という経験があります。
 読んでいてそんなことを思い出して、ほかに何かそのような経験はないだろうかと考えるうちにふと思うところがありました。
 ぼくはあまり仕事熱心なほうでなく、でもそんな自分があまり好きでなく、ばりばり仕事をする人にあこがれたりしています。しかしがんばろうと思ってもどうしても決意は持続せずいまいち熱心になることが出来ないのでありました。何とかその悩み事を解決したいと、本屋に行くと「自己啓発」や「心理」などのコーナーで立ち止まり、そのへんの本の頁を繰ってみたのですが、「ポジティブ・シンキング」や「前向きにがんばれ」などという言葉にその場では一応納得するものの、同時に強い違和感をも感じていました。そのへんの違和感を自分なりに突き詰めたところ、要するに「自分にとって前とはどちらを指すのか」とか「がんばることは本当に良いことなのか」とか「なにがポジティブなのか」といったことたちが、解決されないままで置いていかれていることに起因しているような気がしました。
 今までなんかそのへんのところがぐちゃぐちゃとしていたのですが、今回この本のこの章を読んでいて、自分の悩みが「言葉の意味」という領域、つまり「むずかしい問題」の領域にそれなりにふみこんでいるのではないか、と感じたのです。だからといってどうするというのでもないのですが、でもこういう悩み事を話して、ある人から「お前はおれの中学生の
ときみたいだ」と明らかに馬鹿にして言われたこともあり自分でも「そんなことばかり考えて自分は駄目人間だ」と思っていたふしもあったので、「中学生の悩み事」から「(それなりに)むずかしい問題」へとシフトするだけでも気が晴れて良いのでありました(浅はかですいません)。だからと言って仕事しないでそんなことばかり言ってるとくびになりますので仕事する「ふり」はしますけど。
 あと、心理学の「お悩み相談」的(?)な本に、「他人の目を気にするな。自分のやりたいようにやれ」という言説がよくあって、自分はこの言葉にも違和感を感じておりました。それは、「本当に他人の目を気にしないで生きていけるのだろうか。他人の目を気にしない、というのは、そういう堂々とした自分を誰かに見てもらいたい、ということなのではないだろうか、というもので、結局すべての表現は他者とのコミュニケーションをどうとるか、ということに行き着いてしまうのではないだろうか、と漠然と思っていました。第六章の「コミュニケーションから生まれるもの」を読んでその辺もすっきりいたしました。
 なんか長々と、脳科学に関係のないことを書いてしまってすいません。夢中になってしまいました・・・。
 
 最後にもう一言だけ許してください。
 ぼくのような文章も上手くない不器用で有名な人間がこのように夢中になって文章を打ってしまったのも、自分が長年悩んできた悩み事があるからです。だから、チューリングという人の「人間の創造力の源泉」の話は非常によく分かるような気がします。

 P.S すばらしい本をありがとうございました。(長くてすみません)
 
 

「意識とはなにか」

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年10月13日(月)23時56分4秒
  の目次、内容見本等はこちらです。

http://www.qualia-manifesto.com/chikumamogi.html

 

「意識とはなにか」についての

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年10月13日(月)23時50分23秒
  ご感想、ご意見、ご質問などをお書き込みください。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480061347/qid=1065576480/sr=1-2/ref=sr_1_0_2/249-9004904-1862726

 

以上は、新着順61番目から80番目までの記事です。
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