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チューリングテスト

 投稿者:N  投稿日:2004年 3月 4日(木)11時07分9秒
  人間と区別がつかないほどのコンピュータができたとしても
僕はコンピュータが思考力を持つとは言えないと思います。
プログラムを書くのは人間です。
だからプログラマの思考力がわかるだけなのかもしれません。

プログラミングミスでプログラマが思いもしなかったことが起きた場合
それはプログラマの思考なのかコンピュータの思考なのか
と考えると何がわかるのかよくわかりません。


 

関根さま

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2004年 2月 6日(金)07時58分9秒
  お返事が遅れまして、もうしわけありません。

科学的、因果的な説明では、意識の属性自体には到達し得ない、
ということはすぐに了解できることのはずですが、
どうしても暗がりで落とした鍵を街灯の下で捜す、
というようなことをしてしまうのですよね。

Nさま
意識は神経細胞の活動の関係性から生まれると
考えられているので、ご質問のようなことは
ないと思います。
ただしこれは「我おもうゆえに我あり」
の人間の意識のことであり、
宇宙に他の意識の形態が存在する可能性を
否定するものではありません。
 

(無題)

 投稿者:  投稿日:2004年 2月 4日(水)10時05分23秒
  精子にも意識はあるのでしょうか?
もしあるのなら、受精後それはどうなるのですか?
 

歯痛。

 投稿者:関根正彦  投稿日:2004年 1月27日(火)14時18分36秒
  ご返事頂きまして恐縮です。先生と直接コンタクトが出来まして嬉しく思います。その後、色々な
事を思い出しました。私は幼少の頃からくどいとよく言われ、色々と大人に対して質問攻めをして
いたようですが、成人してからも同じで現在も仕事面では少々くどいと社員に言われます。私の
従兄に歯科医がおりました。(20才程年上でもう亡くなってますが)高校生の時だったと思います。歯痛に関して質問したことがあります。(歯根膜炎末期の激痛を味わっている時でした)
 < 歯痛は何故嫌なのだろうか。>
   それに対する問答は以下の通りだったと思います。
  従兄 : 痛みの刺激が脳に伝達されると痛く感じるから。
  私  : そんなこと聞いているのでは無く、痛みの刺激は何故嫌と感じるかが聞きたい。
  従兄 : 元来、生体には生存に不適切な状況を避ける為に色々な仕組みが出来ている。痛み
       の信号は危険回避の為の信号なので緊急に対応を生体が行わざるを得ないよう、
       現状からなんとか離脱させようとする目的で、「嫌」と感じる。
  私  : 仕組みを聞いているのではない。仕組みの先にある「嫌」と感じる、判断する仕組       が知りたい。
  従兄 : それは脳だ。
  私  : 脳だって仕組み。仕組みを聞いているのではない。
  従兄 : 一体、何が聞きたいの。
  私  : ・・・・・。とにかく直して下さい。

  結局、歯根に穴を空けて貰い、一気に排膿した途端嘘のように「嫌」な痛みが薄れていきまし
  た。

  確かに「痛い」と感じている「自分」は「いる」らしいが、もしかして「いる」と錯覚して
  いるのではないだろうか。錯覚ではなく「いる」の定義が不十分なのではないのだろうか。
  単に何かが高速でスキャンニングしているだけではないのか。あるいはメタ的問題の為、
  自分自身を定義することは本質的に無理なのではないのか。
  もし「意識」とはが分かったとした場合、それはやはり仕組みとしての説明なのだろうか。
  私はどうしてもそうは思えません。近代物理学における存在の問題に量子力学的概念が導入
  されたことにより説明体型ががらりと変わったように、先生の言われる何か新しい概念の
  飛躍が出てきて初めて「意識」の問題に近寄れるように思っています。
  システム仕様書、プログラム仕様書しか書いたことがありませんので、支離滅裂な文章ですが
  また投稿させて頂きます。

  茂木先生へ
  
 

関根正彦さま

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2004年 1月24日(土)15時00分57秒
  ありがとうございます。

40年以上の前のご自身の体験を
鮮明に覚えていらっしゃり、
しかもそのことを問題意識として
継続して暖めていらっしゃることに
感銘を受けました。

私たちは、日々時間に追われて生きていますが、
そんな中でも、<私>という存在は
どこから来るのか、
そのエッセンシャルな問題を考え続けるということは、
生きるということを充実させるためにも
大切なことのように思います。

また、お時間がある際にお立ち寄りくださいますと、
うれしく思います。
 

私の意識を意識した時。

 投稿者:関根正彦  投稿日:2004年 1月23日(金)17時52分29秒
  初めまして、関根と申します。当年57才で小さなソフトウエア開発会社を経営しております。先週、
本屋で「意識とは何か」を見つけた時は長年考えていた課題そのものでしたので非常に興奮致し
ました。自分が意識していると言うことはどういう事なのか、他人も同じように意識を持って
いるということをどの様に証明したらよいのか(外界は大いなるものから与えられたスクリーン
であり客観世界などはないという考えに反駁可能かetc)について思索すると結局最初の課題
である自分の意識の問題に帰着してしまいます。怖くなり即座に当たり前のやさしい問題に逃げ
帰ってします。今でも鮮明覚えている初めて意識を意識した時のことを述べます。
13才の中学生の時でした。中間テストがあり、その時だけは席順が変わり私は丁度黒板の前の
前列に座っていました。前の晩に従兄と徹夜で将棋を指してそのまま寝ずに登校しましたので
ボーとしていました。見るともなく黒板を見ていた時のことでした。今黒板を見ている感じを
認識している自分がいる、本当に感じているのだろうか、意識から逃れられるのだろうか、もしかしたら生きていないのではないのか・・・。瞬間、冷や汗と恐怖に襲われすぐに隣と話をし、
当たり前の世界に戻りました。以来、時々このようなことを考えるのですが途中で止めてしまい
ます。ゆっくり考える時間が取れたら考えてみようと思いながら結局40年以上たってしまいまし
た。茂木先生の本に出会っただけでなく、このような掲示板までありますので今後、少しずつ
書かせて頂くつもりです。
以上
 

フジキセキ様

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2004年 1月 8日(木)10時16分42秒
  ご感想をおよせいただき、ありがとうございます。

うろ覚えで、それを知っている感覚(feeling of knowing)
しかない時に、それが様々な刺激で
補強されて読み出されてくる過程は
興味深いですね。

 

形而上的なアプローチから脳を説いた本

 投稿者:フジキセキ  投稿日:2004年 1月 5日(月)21時08分6秒
  ようやく読みました、実は10月から買い置きしてました。
まず「ふり」の問題ですけど、これは社会生活を営む上で自分のパーソナリティーを使い分ける技量はやはり持たないといけない。
職場と家族と友達と恋人(嫁さんあるいは旦那さん)によって使い分けるのが普通でして、何故と茂木さんのように雑談では時々この話題をされることはありまして、おそらく最初はパーソナリティーの使い分けをみんな下手でも回りをみて学んでいくのでしょう。処世術というのかも。

次にクォリア。この言葉をまだ僕はうまくつかめてませんけど、
確かにコーヒーだけ飲むのとアイスクリームを食べた食感の後コーヒーを飲むと味わいがブレンドされますね。中村雄二郎さんの著作でも似たような例をあげていて脂っこい食後の煙草はうまいと書いてました。

人物の同一性の判断>
「モノ、人を「同じ」と判断するのに属性のみならず、仮設検証というべき能動プログラムを含んでいる」と茂木さんの指摘されています。
ここで例に挙げている同一人物であったかの検証ですけど、顔はぼんやり覚えていても固有名詞がなかなか出てこないことは時々ありますね。
固有名詞はその人、モノとの関連性が1つだけなので他の事柄をいくつもの結び付きがある事柄に対してすぐに記憶の引き出しを出してきにくいのはありますね。
僕のよく経験するのは歌詞のある曲をインストルメンタルで流れていると歌詞は出てくる、メロディーラインも出てくるけれども曲名の出てこないというのはよくあります(笑)
以前僕は趣味のホームページをしてましたけど、今までの趣味や旅先の出来事や祭の話を書こうとして一通り評論をチェックしたり地図や写真をみて思い出すと普段日常では到底出てこれない記憶の引き出しから
話の種を想起することができました。かなりいろんな記憶を蘇らせることができて、そうかこれが、脳の可塑性というものかと感動しました。
いえっ、いろんな趣味を教えてくれと知人に頼まれて作成したのと
趣味を説明するためにCDショップやビデオ屋や本屋巡りを知人としている内に思い出したのと相手も僕の話を聞く内に突然思い出す現象に恵まれました。
 

御返答に感謝(遅くなりました)

 投稿者:Junky  投稿日:2003年12月 9日(火)12時18分29秒
  いろいろ質問などもさせていただきたいと、
思ってはいるのですが、なかなか・・・
ともあれ、今後ともよろしくお願いします。
 

Junky様

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年12月 1日(月)17時37分56秒
  感想、拝読いたしました。
ありがとうございました。

科学に引導を渡したの下り、思わず爆笑してしまいました。

従来の経験主義科学を素直にやっていても
心脳問題は解けないことは火を見るよりも明らかなわけで、
やはりここらで一発どーんと飛躍する必要があるのでしょう。

しかし、うまく飛ばないと、とんでもない沼地に着地して、
ずぶずぶと潜っていく可能性が高いのも事実です。

多くの人が飛んでいる量子意識の方向には今一つ飛ぶ気がしない今、全ての
ジャンパーは正念場を迎えているように思います。
 

薮の細道に一歩

 投稿者:Junky(tokyocat)  投稿日:2003年11月28日(金)10時11分22秒
  こんにちは。Junkyと申します。
『意識とはなにか』、読ませていただきました。
前回の『心を生みだす脳のシステム』が地図作りとすれば、
今回は、薮のなかの細道をいよいよ一歩一歩たどりはじめた、
そんな印象を持ちました。期待がいっそう高まります。
拙いながらも感想を書きましたので、ご報告いたします。
(下記URLです)

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20031128

 

tatumiさま

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年11月26日(水)11時23分57秒
  ご指摘の問題、大変重要な点ですね。

同じ文章を朗読している時にも、意識、無意識の
中で去来するものというのは毎回違うわけで、
決して厳密な意味での繰り返しはない。

同一と差異が絡み合っていることこそ
認知の特質だと思われますが、
そのあたり、ベルンシュタインのような
先駆者の仕事の持っているメッセージ性が、
まだ、神経科学の経験主義的データの解析の
中には生かされていない。

認知の世界は膨大ですね。
まだまだ、やることが沢山あるように感じられます。
 

「やさしい」と「むずかしい」の間の往復

 投稿者:tatumi  投稿日:2003年11月22日(土)22時19分20秒
   最近、ジル.ドゥルーズのいった「差異と反復」について考えています。というのは、学習にとって一番よい学習方法とは、「反復なき反復」方式が最も人間らしい学習方法(personal experienceの蓄積)であると私は考えているからです。「反復なき反復」とは、ロシアのベルンシュタインが最初に着想したことなのですが、彼は、鍛冶屋のハンマーが釘を打つ軌道を分析した結果、同一の釘を打つのに何百回も打ってもその軌道が全部違うという着想を得て、そのことから同一のことを違うことして反復することが学習には最も大切だと考えたそうです。つまり、職人の巧さ(dexeterity)とは、機械的な反復練習ではなく、多様な異なる解決プロセスを含む柔軟な反復練習により、人間らしいdexeterityが最も向上します。「同じことの反復」ではなく、「差異を伴う反復」です。茂木さんのいう「やさしい」と「むずかしい」の間の往復という問題設定も、今後、人間らしい新しい21世紀の学習方式として応用できるのではないでしょうか?さらなる理論の発展を祈念しております。  

swim.0704.さん

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年11月22日(土)07時32分31秒
  ご感想ありがとうございます。

Qualia for Kids 前から書きたいと
思っているんですけど、なかなか時間がとれません。

Web pageにでも、まずはFor Kidsのpage立ち上げようと
思っているのですが。

>たとえば海を知るためには、海水をすくって分析したり、
反射する光を測るだけでは不十分で、
海にドボンと飛び込み、
そこに広がる美しい世界を感じてみることも大切だと

まさにそうです。
文学とか芸術に重大な関心があって、
そこで活動をしたいと思っているのも、
科学が標準的にあつかうようなクオリアだけじゃ
クオリアのレパートリーとして不十分で、
まずは人間が感じることのできる
クオリアにどのようなものがあるのか、
そのラインアップをおさえて、
はじめて理論もできるように
思います。
 

クオリアはプライベートなもの

 投稿者:swim.0704.  投稿日:2003年11月20日(木)02時12分22秒
  クオリアについて思いをはせるとき、
「クオリアはプライベートなものである」
に引っかかりを覚えます。
 →「それを感じる私」とクオリアは不可分のもの。
理解はできます。
極論、そうでなければ「私」と「あなた」は
同じになってしまうからでしょう。
それでも、人と共有できれば素敵だろうなと
思わずにはいられません。
だからこそ懸命にコミュニケーションを
図ろうとするのでしょうが。
第7章を一番興味深く読ませていただきました。

ひとつ疑問が残ったのは、
同じく第7章「クオリアの生成作用」の中で。
「そのレパートリーが決まっている」とは、
「記憶のフラッシュバック」との関係を
示唆しているのでせうか。

今後、この問題について
「○○学の枠にとらわれないで解決にあたってゆく」
とのこと。
たとえば海を知るためには、海水をすくって分析したり、
反射する光を測るだけでは不十分で、
海にドボンと飛び込み、
そこに広がる美しい世界を感じてみることも大切だと
お考えなのでしょうか。
同じように、人の心(意識)を考えるのですから、
脳科学、認知科学、哲学、
その他学問からのアプローチばかりでなく
人と関わって人のキモチが分かることも大切だと。

いずれにしても、なんの下地のないわたくしでも
最後まで関心を持てた貴著でした。
クオリアを、感覚的と志向的の二つに分けず
話が進んでいったことも
初心者として理解しやすかったのかもしれません。
今、成長著しい中学生の甥にも読ませたいと思ったのですが、
少々むつかしいようです。
「願わくば子ども向け本」と
考えるのはわたくしだけではないはずです。
 

徳永さま

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年11月 4日(火)06時48分3秒
  ご指摘のとおり、クオリア日記は、その日その日に
思いついた認知に関するいろんな視点の防備録のような
性格もあります。

(書いておかないと、忘れてしまう、ということもあるわけで(笑))

不思議なことに、web日記として書くことで、
その視点が、過剰にprivateな領域にとどまらず、
うまくprivateとpublicの汽水域に展開されていく、
という側面があるようです。
 

茂木健一郎さま

 投稿者:徳永 太  投稿日:2003年10月29日(水)02時53分57秒
   クオリア日記に関する私の質問にお答え頂き、ありがとうございます。

『「私という人生の具体的なエピソード性の中に、普遍的なものがどのようにかかわってくるだろうか」ということをいかに表現していくか、ということがテーマだということです』

 とのお答えから拝察するに、その企図は、ご自分の人生を彩る個々の事象をつぶさに観察・考察することで、<私>あるいは「人の意識」を普遍化していくという点にあるように思います

 ご存知のように、実験科学の世界には予備実験と呼ばれるものがあります。論文に掲載されるデータとは別に、それらデータを下支えする実験のことで、大抵の場合は日の目をみることはありません。しかし、こうした予備実験のデータが豊富であればあるほど、実験者は研究対象の見通しをよくすることができ、より質の高い研究に仕上ることができます。
 クオリア日記は、「意識とはなにか」で示された論考の「予備実験」という風に理解することはできるでしょうか?
 もし、そういう解釈も成り立ち得るなら、クオリア日記の毎日の更新が苦にならないとおっしゃることも、なんとなく理解できる気がいたします。

「割に合わない」という表現は筆が滑りました。訂正いたします。
 茂木さんと同様の方向性に興味がある脳研究者(私のような後進も含めて)からしますと、クオリア日記は貴重なテキストです。もちろん、読みこなすのには相応の知的体力を要します。覚悟がないと、かつての私のように、「知の自由」に圧倒されっぱなしで、息切れしてしまいます。
 しかし、クオリア日記から学ぶこと、感じること、あるいは、クオリア日記によって、啓かれること、動かされることは多岐にわたり、読む者からすれば、これほどあり難いテキストはないように思えます。
 それゆえに、ふと考えました。

 これを毎日お書きの茂木さんは、私たちと同じ位の恩恵を得ているのだろうか? 受けているとしたら、いったいどんな恩恵なのだろう? ちょっと想像がつかないぞ???

 私自身は日記(質はともかく、クオリア日記のようなスタンスのものとお考え頂いて結構です)を書くことはあっても、それをサイト上で公開するなどは考えただけでも恐ろしいことです。普段から人様にはお見せできないことばかり考えているからでしょう(苦笑)。
 もちろん、別の懸念もあります。
 再度、予備実験の比喩を用いますと、仮に、予備実験のデータをすべて公開している実験者がいるとすれば、その実験者は科学全体の発展に寄与したいという強烈なメッセージの発信者といってよいと思います。しかし、同時に、かなりの豪胆の持ち主でもありましょう。予備実験を公開したばかりに、競争者に先をこされる危険性もあるわけですから。

 つい、あのような書きこみをしてしまったのは、もしかして、茂木さんは、このような「敢えて予備実験を公開する」という考えから、クオリア日記をお書きになっているのかなと思ったからです。
 クオリア日記と今回の御著書「意識とはなにか」との関係性についてお尋ねしたのも、そうした観点からでした。

 どうも自分の考えがまとまらないうちに、うっかり、つまらない書きこみをしてしまったようです。
 反省しております。
 

tatumiさま

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年10月28日(火)07時33分27秒
  どうも、ご感想ありがとうございます。

ああ、そうですね、確かに、自分がクオリアを感じていることに
目覚める瞬間は、ひとすじの光明のようなものですね。

いいメタファーですね。ありがとうございます。
 

私と他者問題

 投稿者:tatumi  投稿日:2003年10月27日(月)22時28分14秒
   茂木さんの本を読んで自分が考えたことを勝手に書きます。私が私であることに関して、カントが次のようなことを述べております。「言葉をかなり使いこなすにいたった子供でも、私という語はなかなか修得されない。私という一人称が登場するためには、ひとすじの光明が、私がこの私としてなりたたせる、光が必要なのである。」と。同様なことは、クオリアにもいえるのではないでしょうか?人は、人生のある日、私が生きている世界に、多様な美しいクオリアに満ちていることに気付く瞬間があります。このクオリアに目覚める瞬間とは、何か人生に明るいひとすじの光明が差し込むようなものです。このひとすじの光がどこからくるのかは不明ですが、クオリアへの目覚め(光明?)があって初めて、人はクオリアという未知な言葉をうまく使えこなせるようになるのではないでしょうか?そして、クオリアの目覚めから始まって、さらに、私が私であることの同一性問題へと考えていると、どうしてもひとつの大きな壁にぶつかることになります。それは、他者問題であります。私が私であることを考えれば考える程、私からの絶対的な隔たり、差異である他者(他なるもの)が私の前に立ちはだかってきます。この私と遥かな絶対的な隔たりである他者との関係を思考することとは、本来不可能のものを思考する難しさがありますが、私が私であるという同一性問題を解くためには、この他者問題を避けることはできないのだと思います。この他者問題を解くためには、他者がまさに他者として顕われてくる痕跡を糸口にするしかないのですが、この他者の残した痕跡は、今、ここという私の現前から逃れさり、感覚的経験の遥かかなたへと身をしりぞいていく定めがあり、通常の理性とは断絶され、そのため通常の理性で解くことを難しくしております。この辺りの他者問題に気付かないと、人はつい独我論に陥ってしまう傾向があります。さて、ここで、私が人生で考えている究極的な人生目的から申し上げますと、私が私であるという同一性問題を解明することは「自我における解脱」への道を人に導き、他者問題を解明することは、「神からの人の救済」への道を開いていくのだと思っております。結局、人が人生で究極的に求めるものとは、「自我の解脱」と「神からの救済」になるのではないでしょうか?物理学同様、哲学の三体問題に、「私」、「他者」、「自然」があると聞きますが、このあたりの絡み合いに、なにか大きなブレークスルーが起きないかと茂木さんには期待しております。今後とも、茂木さんの御活躍を祈念しております。
 

佐々木さん

 投稿者:茂木健一郎  投稿日:2003年10月27日(月)19時39分18秒
  ありがとうございます。

中村桂子さんによるものですね。筑摩書房の、担当編集者の増田健史さんも
教えてくださいました。

それとは別に、週刊朝日に永江朗さんによる書評が掲載されているようです。
 

以上は、新着順41番目から60番目までの記事です。 1  2  3  4  |  《前のページ |  次のページ》 
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